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□ 2014/11/07 仏教により広まった日本の入浴習慣

五風十雨(ごふじゅうう)は「五日かに一度の風、十日に一度の雨」と言う意味で、日和が大変良い平穏な状況を指す四文字熟語だ。その出典は旧唐書の「礼儀志」で、「太平の時、五日に一風、一年に七十二風あり」とある。
この五風十雨を「ごふうじゅうう」と読ませる辞書は誤りである。「風」を「ふう」と読ませるのは漢音で、「ふ」と読ませるのが呉音だ。漢数字「一、二、三…」等々は呉から伝来したので、慣わしとして数字がらみの熟語は基本的に呉音でが正しい。つまり正しくは「ごふじゅうう」だ。日本人でも呉音と漢音の正しく使い分けるのは難しい。ましてや日本語を学ぼうとする外国人にとり、この区別は摩訶不思議だろう。
仏教用語もまた呉音で読むのが慣例で、仏教と共に伝来した風呂もまた、「ふうろ」ではなく「ふろ」と読み、風呂敷は「ふろしき」と読む。

奈良時代や平安時代には、貧しい人々や病人、囚人らに湯屋を開放して湯浴を施す功徳の高い「施浴」と呼ぶ行があった。上は光明皇后が湯施行を行った情景を描いた東大寺に伝わる「大仏縁起絵巻」

仏教経典の「温室洗浴衆僧経」には、汚れを落とし身を清めるは、仏に仕える者の務めであると説き、 ①燃火(ねんか)②浄水 ③澡豆(そうず)④蘇膏(そこう)⑤淳灰(じゅんかい)⑥楊枝(ようじ)⑦内衣(ないい)の七物を入浴する際に整えることで「七病を除去し、七福が得られる」と記されている。
風呂も伝来当初は、今のようにしっかり浸かれる方式では無く、全て蒸し風呂だった。「首までしっかり」の「据え風呂・湯船」が登場するのは慶長年間も末期まで待たねばならなかった。
因みに、前出の風呂敷は物を包むための布では無く、風呂に入る時に敷物として用いられたことに由来している。


現存最古の風呂が東大寺にある。大湯屋と呼ばれ1239年に建造(現在のものは1408年に改修)されたものだ。 当初、湯屋が設けられたのは、国や天皇により建立された大寺院ばかりで、まだまだ特定の階級の一部の者のみが利用できる特権的な施設であった。
後に、各寺院では施浴(せゆ・ほどこしゆ)が盛んに行なわれるようになり、宗教的意味合いを超えて庶民の衛生観念向上に大いに貢献した。日本人を風呂好きにした素地を作った時代だったとも言える。
施浴で入浴の楽しみを知った人々は、ますます風呂が好きになり、平安末期には京都に銭湯のはしりともいえる湯屋が登場する。しかし、まだまだ蒸し風呂全盛の時代だ。
江戸初期の見聞記「慶長見聞集・けいちょうけんもんしゅう・1614年」に、伊勢与市という者が徳川家康の入府の翌年(天正19年・1591年)の夏頃、銭瓶橋(今の千代田区丸の内)に湯屋を開いたのが最初だとある。
また、慶長期の江戸の歌舞伎や吉原のことを詳しく記した「そぞろ物語」には、【今は町毎に風呂あり。びた十五銭、二十銭づつにて入るなり。湯女といひてなまける女共、二十人、三十人ならび居て、あかを掻き髪をすすぐ。さて又其外にようしょくたぐひなく、心ざまゆうにやさしき女房ども、湯よ茶よといひて持来り、たはぶれうき世がたりをなす。かうべをめぐらし、一たびゑめば、もののこびをなして、男の心をまよはす。さればこれを湯女(ゆな)ぶろと名づく。】とある。
湯女風呂(ゆなぶろ)の増加に伴い、湯女の淫売が盛んになったが、暗娼(私娼・陰で春をひさぐ妓女)を許さぬ幕府もこれには何故か断固とした措置をせず、風呂屋一軒につき湯女を三人までと限定してお茶を濁した。
時はまだ、城下町もろくに整っていなかった頃のことだ。最初に勃興するのがその手の商いであるのは、どの時代でも同じようだ。2011年の東北地方太平洋沖地震も、真っ先に復興が始まったのは夜の歓楽街だった。当時、多くのホステスが東北の夜の盛り場を目指したことはまだ記憶に新しい。


慶長末期には「町毎に風呂あり」と云われるほど銭湯は隆盛を極めたが、当時はまだ蒸し風呂方式の「戸棚風呂」で、浴槽の底に膝を浸す程度の湯を入れ、その湯気で蒸す仕組みだった。出入口に引違い戸を付け、「ざくろ口」と呼ぶ潜り口(くぐりぐち・下の絵の赤い部分)を設け、湯気の漏れるのを防いでいた。

   
  番台でお金を渡すのはこの頃からのスタイルで、鍵付きの衣棚に衣服を入れ、鍵を髪に差して洗い場に入った。現代ではこれが手首のゴム紐に代わっただけだ。
当時は洗い場と脱衣所が同じ一つの空間だった。奥にあるのが湯を貯める湯船で、ここから湯を汲んで体を流した。
 
   
   
  首まで湯に浸かる「据え風呂」ができたのが慶長末期で、初めて蒸気ではなく湯船に直接浸かれるタイプの風呂が登場した。当初は桶に湯を入れる方式だったが、後に桶の中に鉄の筒を入れ、その下で火を焚ける「鉄砲風呂」が江戸で広まり、桶の底に平釜をつけて湯を沸かすタイプの「五右衛門風呂」は関西方面で広がった。
しかし、湯が貴重な為、多くの湯屋には浴槽が一つだけで、自然発生的に温浴が主流となって行った。混浴では問題が起こっていたようで、寛永や天保の改では、度々「混浴禁止令」が出ているが、既に混浴が生活や娯楽(?)の一部となっていたことで、「禁止令」は有名無実になっていた。
 
   
  http://www.kitchen-bath.jp/public/yomimono/imononohanasi.html  

江戸時代は、お屋敷に住む町民でも内風呂を持つことは叶わず、ましてや長屋住まいの庶民や下級武士には夢のまた夢であった。
元々江戸の町は井戸の出が悪く、水は大変貴重だった。井戸はあっても長屋に一つの時代だ。そもそも「水」が手に入っても、薪の購入代金は馬鹿にならなかった。その辺が大いに湯屋が賑わう理由にもなったと考えるが、町屋の若い娘から武士、職人までが狭い空間で「混浴」せざるを得なかったことは、湯屋が賑わう隠れた要因であったとしても何ら不思議なことではない。
いつの世も女性の敵はいるもので、不埒な行為に及ぶ助平が後を絶たず、寛政3年(1791年)には一旦男女の浴場が分けられた。
しかし、いつの間にか元の混浴に逆戻りしている。これは単に助平達の悪企みではなく、スペースの制約とか経済的な問題(男湯と女湯に分けると燃費等の経済効率が落ちる)とかがあったのではないかと考える。
もっぱら助平達が不届きな行為に及んだのは、浴槽に浸かれるようになってからのようで、今のような明るい照明では無く、油皿の薄暗い明かりだけだったのだから、気持ちは解らないでもないが…駄目なものは駄目!
ペリー総督は「ペリー総督日本遠征記」で、「日本人は道徳的な民族だが一方では淫蕩である」と日本人の混浴に対し嫌悪感を示し、「裸でも気にせず男女が入り乱れて入浴しているのを目の当たりにすると、この町の住民の道徳心に疑いを差し挟まざるを得ない」と述べている。
しかし、オランダ人医者ポンペは「彼らは性の区別を意識しないから少しも見苦しくない」と書き、江戸後期に来日したラザフォード・オルコック(初代駐日英国公使)はその著書の中で、日本人の入浴について、「最初に我々が訪れた湯治場は、街路からあけすけに見える所にあり、僅かに陽を遮るための屋根があるだけだった。中年過ぎの女性が一人湯に浸かっていた。この婦人は一切の自意識や当惑というものを持ち合わせず、体を洗い一つの仕事を済ませたというような意識があるだけで、そのことを他人に見られたりしてはいけないという理由は存在しないという風だった。」と記している。
ペリーは日本の混浴には馴染めなかったが、当時の他の外国人(ヨーロッパ人)は大方混浴の習慣に理解を示していたようだ。
ペリーの混浴に対する嫌悪感は、彼のキリスト的道徳観から来たものだと考えたい。それは「男女七歳にして席を同じゅうせず」と教えた儒教と同じだ。
別の見方をすれば、ペリーの嫌悪感の根底にあったのは公衆浴場の文化を持てなかった米国人の「やっかみ」だったのではないか。そう思った方が日本人としては気持ちが良い。


1800年頃の江戸の人口は約100~120万人、同時期のロンドンが約90万人、パリが約60万人であったことからすると、江戸の町は当時世界最大の都市であったことが判る。しかしこの約120万人もの住民が、JR山手線の内側にあたる狭い範囲で、ひしめき合って暮らしていた。
江戸には御家人や旗本の屋敷が多数あり、幾つもの大きな寺社もあった。驚くことにそれらの屋敷や寺は江戸の町の約7割をも占めていた。庶民は残された僅か3割の土地に押し込まれて暮らしていた。
この狭さ故、江戸では譲り合いの精神が生まれ、他人を尊重し余計な詮索をしない生き方が自然と育まれた。これは心が冷めているのではなく、逆に他人を思いやる心から始まっている。都会人は冷たいと評する者は、その辺りを全く理解していない。東京の地で代々生活している者はほんの一握りしかいない。多くの者が地方からの出身だ。互いの意思疎通を欠いては良好な世間との交流は成り立たない。
湯屋では身分の差は一切無く、全ての者が平等な「裸の付き合い」だった。例え武士であろうとも、照明が暗く混み合う銭湯では、必ず「冷えものでござい~」と声を掛け、自分が未だ湯で温まる前の冷たい体であることを周囲に申告するのが常であったと云われている。
また、他人の裸(ましてや若い娘の)をジロジロ見るようなことはご法度で、「見て見ぬ振り」が暗黙の了解として成り立っていた。


銭湯は「裸の付き合い」ができる憩の場であったが、やがて二階で湯茶を出し男性客を接待する湯女風呂が繁盛し、湯女が大活躍した。早い時間は銭湯で客の背中を流し、タ方からは客をもてなす稼業へに鞍替えした。まさに銭湯(戦闘?)開始だ!
この湯女風呂全盛期には吉原の遊廓が寂れて閑古鳥が鳴く程であったとも伝えられている。
エステ
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