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□ 2014/11/20 隠しても何れは白日の下に晒される

ソウルの西大門独立公園内にある「独立門」は、1896年11月21日定礎し、翌年の11月20日に完成した。つまり、今から丁度117年前になる。韓国ではこの独立門を、日本からの独立を記念して建てられたものだと勘違いしている者が多いらしい。
韓国は恐らく世界の誰よりも、自国の歴史や文化を自慢する民族主義の強い国だ。動乱後(朝鮮戦争)に時の政府は、焼け野原となり荒廃した国家を復興させる手段として、この国民の気質を利用した。愛国心を鼓舞するのが最も容易い方法だからだ。その一つの方法として、立派な独立国家であった朝鮮を、一方的に侵略し崩壊させたのは日本であると、歴史を捏造し民族心を刺激した。反日で塗り潰した歴史を国民に押し付ける国家レベルでの歪曲がその時始まったのだ。
しかし、半島の隣に強大な中国があったことが災いした。朝鮮の歴史は大国中国に隷属せざるを得ない屈辱の連続だった。韓国政府は認めたがらないが、文献や物的証拠は数え切れない。学術書に目を通す機会でもあれば、その辺りのことは容易に知り得ることだが、度重なる戦乱で散失した文献等も多く、全容の解明は難しいと云う。
高麗時代の研究に於いても、唯一現存する文献が中国にある「高麗図経・1123年」だと云われているが、これも図が全て失われている悲惨な状況だ。

高麗図経と高麗時代の立派な宮殿

朝鮮の歴史は、日本の焚書や破壊により失われたと本気で考えている者が多数いる。これは政府により歴史が捏造された結果だ。だが、国民を愚弄する政策などそう長くは続かない。都合の良いことだけを史実とするのではなく、事実は事実として謙虚に受け入れてこそ民族が奮起できる力となる得る。いつまでも国民を騙せる筈などない。事実を知った時の若者の喪失感は測り知れない。
日本も終戦後は自虐史観一色になった時代があった。またその一方で愛国心を否定するかのような教育が、一部の教職員により積極的に進められたりもした。ただ我々が幸せだったのは、言論や出版の自由(妨害もあったが…)だけは確保されたことだ。
今の日本は韓国や中国が言う「右傾化した」訳では無い。不自然に振れ過ぎた振り子が元に戻ろうとしているだけのことだ。振れ過ぎた振り子の戻る先は、決して戦前のような軍国主義の国では無い。一部の好戦的な者を除き日本人の多くは争いを好まない。
下は 2002/07/24韓国人作家金完燮氏 SAPIO に掲載された批判記事の内容だ。リンクをクリックすると全文が見られる。

SAPIO 2002.7.24号 特集【「W杯で日韓友好」の嘘と偽善】より
「日本統治を肯定」で逮捕された作家の「韓国人は嘘の歴史で反日となった」

…特に子供と青少年は、きれいな道ときれいな家、整った身なり、上品な言葉遣いのテレビの歴史ドラマを観ながら、朝鮮もそれなりに立派な社会で外勢の侵略がなかったならば静かで平和な国家を保てたろうと錯覚する。しかし日本が来る前の朝鮮は、あまりに未開で悲惨だったという事実を知らねばならない。…と「親日派のための弁明」 で金完燮氏は書いた。
出版すると直ちに彼は逮捕されてしまった。「こんなことで投獄するなら日本大使館に亡命せざるをえない」と抗議したことで、当局は止むを得ず釈放した。現在、この本は韓国政府から有害図書指定を受け、事実上販売できなくなっている。
産経新聞ソウル支局長であった加藤達也氏が、朴大統領の名誉を毀損したとのことで起訴された「産経新聞韓国大統領名誉毀損問題」と根っこは全く同じだ。日本の菅官房長官は記者会見で、韓国の検察当局の対応を「報道の自由、日韓関係の観点から極めて遺憾だ。国際社会の常識と大きくかけ離れている」と批判している。正に民主主義を完全無視した暴挙だ。
日本も明治維新以降、軍の積極的な海外進出に伴い、利敵行為を助長すると思われる言論は徹底的に弾圧して排除した。また世界大戦後の連合国占領下に於いても、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により厳しい検閲が行われている。
韓国は未だにこの水準から抜け出せていない。国家が不都合と判断したものを取り締まる前時代的な「検閲」を、未だに平気で行えることには驚きを禁じ得ない。前出の金完燮氏も身の危険を感じ、一時は米国に逃れていた。その後、帰国はしたものの文筆活動はできず、未だ住所も転々と変える逃亡生活を強いられているようだ。
韓国の親日派に対する形振り構わぬ弾圧は凄まじく、2005年に成立した特別法では、日本から爵位を得た人物の財産が没収できるようになった。没収基準は朝鮮併合時に遡って判断され。憲法裁判所は日本の植民地支配に協力した者の財産没収は遡及立法には当たらないと判断し、この特別法にお墨付きを与えている。
遡及法の指摘を完全に無視した異常事態だ。民主主義国家としての「三権分立」の精神は全く見られない。これでは民衆の言論に血の弾圧で応える中国政府と何ら変わらない。そのうち中国と協力した罪として親中派が弾圧され、その財産が没収される日が訪れるのであろうか。
昨年、95歳の老人が「日本統治時代は良かった」と発言したことで、その場に居合わせた男に殴り殺される悲惨な事件が発生した。韓国のネットでは「死んで当然」「正義の審判だ」 とこの殺人を擁護する発言もみられた。愛国心ゆえだと犯人は供述したが、どのような理由があるにせよ無抵抗の老人を殴り殺した罪は重い。野蛮な「愛国無罪」が大手を振っている風潮は愚民政策が招いた結果でもある。
国がいくら真実を覆い隠そうと、またメディアが挙ってその隠蔽工作に加担しようとも、必ず真実が白日の下に晒される日は来る。捏造された歴史を盲信するような国民だけでは無い。自国民を蔑めるようなことはいい加減止めるべきだ。


高麗は1231年の元による侵入で国土が蹂躙され、1259年には終にモンゴル帝国に屈服した。元の支配下に入った高麗は、二度に渡る日本侵攻(文永の役・1274年と弘安の役・1281年)の前線基地になった。所謂「元寇」だ。一説には自ら日本侵攻を元に進言したとも云われている。
軍船の多くは高麗で建造され、その建造技術は高く堅牢であったとの記録が残っている。実際に「鷹島神崎遺跡・こうざきいせき」の遺物(海底に眠る元軍沈没船)の殆んどは、中国の江南地方(揚子江下流に広がる一帯)で建造された軍船で、高麗の軍船は少ない。また高麗兵と水夫の生還者率が7割であったことからも、高麗の軍船が優秀であったことの証明となる。


高麗王朝滅亡から朝鮮王朝へ:中国で明王朝(1368~1644年)が勃興すると、李成桂(李氏朝鮮の初代国王)は、1393年に明が冊封した「禑王」、「昌王」、「恭譲王」を廃位させ、自らを権知高麗国事(けんちこうらいこくじ・朝鮮王代理・実質的な朝鮮王)と名乗り、明国(1368~1644年)へ使者を送った。
明は李成桂を権知朝鮮国事(朝鮮王代理・実質的な朝鮮王)として認め、1401年には正式な朝鮮国王として冊封し、ここに朝鮮最後の王朝が誕生した。宗主国である明の終焉後も、李氏朝鮮は中国の冊封体制下(清王朝・1644~1912年)に引き続き留まり、日本が日清戦争に勝利し、下関条約で初めて冊封体制から朝鮮を独立させた。

リロード

「渓陰漫筆」によると、朝鮮の使臣は籠に乗り宮廷に入ることは許されず、徒歩で入ったとされる。冊封国であった琉球ですら籠に乗ったままであったことを考えると、その地位が如何に低かったが判る。また朝賀の席で千官が赤色(赤色は属国を表す)の礼服を着ているのに対し、朝鮮の使臣だけは丸首の衣である。因みに黄色は中国皇帝のみに許される色で、如何なる地位の者でも黄色を身に着けると死罪であった。
つまり、当時朝鮮は清の属邦中最下位でしかなかった。その実態を示す良い例として、朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで直々に迎えに出なければならず、その地位は訪れる清の使節より下だった。何とも屈辱的な話しだ。因みに、琉球王朝も冊封使を迎える為の門( 通称守礼門)建て、「守禮之邦」の扁額(へんがく)を掲げ三跪九叩頭の礼を行った。但し琉球のそれは宮殿内で行われたので国王は出向いて門の前で行うのとは異なる。
1873年の台湾出兵の処理に赴いた日本の特命全権大使副島種臣も、同治帝に謁見した際に求められた三跪九叩頭の礼を、儒教の五倫を引用し立礼を主張、最終的に立礼で通した。英国の外交官ジョージ・マカートニーも、1793年に乾隆帝に謁見した際、やはり三跪九叩頭の礼を求められたがこれを拒否、イギリス流で押し通した。
「三跪九叩頭の礼」は国の矜持(きょうじ)が問われる。威信と尊厳とのぶつかり合いだ。大国と陸続きであることより、海を隔てていることの方が遥かに良いことが多いようだ。


明や清の勅使を迎えに出た門が「迎恩門」と呼ばれ、今は独立門と呼ばれている場所にあった。韓国ではこの門を日本からの独立を記念して建てられたと教えているようだが、実際には1896年11月21日定礎、翌年の11月20日に完成したものだ。つまり、日本の朝鮮併合が1910年8月29日~1945年9月9日までの35年間なので、この門が完成した1897年11月20日は日本による併合前で、日本とは一切関わり合いの無いものであることは明白だ。

迎恩門の横に建てられていた降伏した朝鮮王仁祖が三跪九叩頭の礼で赦しを乞う様を描いた銅板レリーフ。銅板は1983年に作られたとし、文化財的な価値はないとの理由により撤去さた

独立門のある場所には今でも「迎恩門」の基礎がそのまま残されている。明や清の勅使がソウルを訪れた際に、朝鮮王が9回頭を地面に叩きつけて、擦りつけ、ひれ伏して使者を迎える「三跪九叩頭の礼・さんききゅうこうとうのれい」行う隷属の象徴的な場所だった。
李氏朝鮮は清の冊封体制から解放(日本が日清戦争に勝利し、下関条約で冊封体制から李氏朝鮮を独立させたことは周知の事実)された際、その記念として清への服属の象徴であった迎恩門を破壊し、隣に「独立門」を建設した。しかし、韓国では下関条約は歴史に一切登場しない。韓国ではこの条約の名を出すことは国家的なタブーになっている。
一番上の写真の右と2枚目と3枚目が独立門で、左が大清皇帝功徳碑だ。韓国が教える歴史には清との間の戦争(丙子胡乱)があったことの記述は無い。相手国に残っている記録が当事国の歴史からは消え去っているのだ。これとは逆に、日本とは一度も戦火を交えていないにも関わらず戦ったことになっている。摩訶不思議で呆れる話だ。
朝鮮王仁祖は戦に敗れ、清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い罪を赦してもらっている。この時の謝罪を記念して仁祖王自らが建立した石碑が「大清皇帝功徳碑・三田渡碑」なのだ。
石碑には「愚かな朝鮮王は偉大な清国皇帝に逆った 清国皇帝は愚かな朝鮮王を窘めこの大罪を諭してやった 良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った 我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず清国に逆った愚かな罪を反省するためにこの石碑を建てることにする」とある。
何とも屈辱的な内容だが、漢文を読めなくなった今の韓国人には大きな影響は無いのかも知れないが、如何に屈辱的な隷属の歴史であったとしても、国家が率先して史実を捏造するのは如何なものか。隠そうとしても何れは白日の下に晒されてしまう。


上は朝鮮併合直後に崇礼門(ソウル)前に建てられた門で、上部には大日本帝国と大韓帝国の国旗が交わり、菊のご紋章と奉迎の文字、そして両側の門柱には一進会の文字が見える。つまりこの門は、実在した「一進会・いっしんかい」なる大韓帝国の政治団体が、併合を記念して歓迎の意味で自らが建てたのものだ。一進会は、大韓帝国で活動していた最大の結社で、韓国では親日団体とされている。尤も、韓国では「反日」でなければ「親日」と呼ばれる運命だが…
帝国主義の嵐が吹き荒れた不幸な時代だったが、歴史は歴史だ。歴史には必ず「闇」がある。それは自由にあらゆる文献を閲覧できる環境が求められる。
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