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□ 2015/01/03 江戸時代の貸本と識字率

泥んこだらけになって駆け回った少年時代、学校帰りに立ち寄る貸本屋は数少ない楽しみの一つだった。貧しかった我が家に本を買い与える経済的な余裕は無く、ましてや漫画本など到底無理な話だった。
参考書以外では唯一買って貰らえたのが、月に一度刊行される少年画報(月刊誌)で、本の数倍もあろうかと思える分厚い付録が子供達に人気があった。今でも発売される日が待ち遠しかったあの頃のことを覚えている。
しかし、心惹かれたのは雑誌の内容より分厚い付録にあった。付録の多くは組み立て式で、硬いボール紙とゴムを使い、飛ばしたり走らせたりするものだった。特に幻灯機や日光写真は好きで、大いに盛り上がった。
この時初めて幻灯機で映し出される像が逆さになることを知り、興味を抱いた。また日光写真では白黒が反転することも知った。これらの新鮮な経験は、その後の趣味(写真)の遠因になった気がする。
誰でも簡単に本が買って貰える豊かな時代からは想像できないだろうが、当時の貸本屋はどこも子供達で賑わっていた。少ない小遣いを工面して漫画を借りに行くのだが、圧倒的にタダ読み(立ち読み)が多かったような気がする。男の子に絶大な人気のあったのは「赤胴鈴之介」や「まぼろし探偵」で、どちらもラジオで放送されていたと記憶している。
最近は貸本屋もすっかり廃れ、全くと言って良いほど見かけなくなった。原因として著作権の問題が指摘されているが、借りずとも容易に購入できるようになった経済状況の好転が根底にあるように思える。またネット社会への移行により、紙媒体が疎んじられるようになったことにも一因があるようにも思える。そして極め付けが若者の本離れだろう。
一昔前は喫茶店でも公園でも、至る所で読書をする若者の姿が当たり前に見られたが、今では全く見かけない。多くの若者は常にスマホを覗き込み指先を忙しく動かしている。大半は悲しいことにゲームに没頭している。今や書籍から情報をえる時代では無くなり、安易にネットや週刊誌のような媒体に依存する時代になってしまったのだろうか。一抹の不安を覚える。
対価を徴収して書籍を貸し借りする「貸本屋」の歴史は古く、日本では江戸時代にまで遡ることができる。当時貸本業は庶民の生活に完全に溶け込み、店を構えるだけではなく、お得意先を廻る行商スタイルも大いに持て囃された。扱う貸本の多くは禁制品である春画や艶本で、公然とは貸し借りできない類のものであったようだ。
春画は亨保7年(1722年)に禁制品扱いとなったが、版元は些かもめげることなく、「どうせ禁止されているのだから」と、 摺箔(金摺・銀摺・雲母摺・艶摺)の技術を惜しげもなく注ぎ込み、世界でも例を観ない絢爛豪華な多色刷りのエロ本を作り上げてしまった。その当時の浮世絵師で春画を描かなかったのは写楽のみだと云われ、貸本屋は浮世絵発展に大いに貢献した陰の立役者でもあった。
江戸時代には既に出版法があり、貸本屋はご禁制の春画以外にも、出版すると当局から差し止められる類のものを多く扱っていた。今で言うところの「ゴシップ記事」のようのものだが、取り締まりの網をかいくぐる目的で、この手の本は正式に出版も販売もせず、写本の形で流通させ、禁書の抜け穴として絶大な効果を上げた。つまり、当時のエロ本やゴシップは貸本屋から貸本屋へ「写本」の形で伝播し各地へ浸透していったのだ。


明和8年5月の京都書林の「禁書目録」に「売買停止並仲間載配」と註記して、紙末に「右載する所の外、聞書雑録等の写本数多有べしといへども、一々記するに暇あらず、すべて禁庭将軍家之御事はいふに及ばず、堂上方武家方、近来之事を記したる書者、右目録にのせずといへども、堅く取扱ふべからず。其外世上浮説にても書体よろしからざる書、是亦右に准ずべし、此の段人々よくよく勘弁あるべき事也。」とある。いつの世にも、どの世界にも考え抜かれた裏道があるものだ。
貸本や瓦版は共に当時の識字率の高さを示す。嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は70~86%にも上り、長屋住まいの貧乏人であっても、手習いへ行かない子供は男女共に殆んどいなかった。記録によれば、日本橋、赤坂、本郷等では男子よりも女子の修学率が高かったとの記述も見られる。
因みに程度の差はあろうが、現在の日本は100%の識字率を誇り、幼稚園児でも読み書きができて当たり前の世の中になった。
小学校~中学校までの9年間は義務教育なのだから当然と言えば当然なのだが、小学校を卒業する者は100%、高校が96.8%で、大学は48%となっている。
一方、お隣の中国は日本と義務教育期間は同じだが、小学校が32.7%、高校が14%で、大学は8%と驚きの低さだ。小学校の32.7%は3人に2人が未就学児童ということになる。日本のように「ひらがな」や「カタカナ」がある訳ではないので「読み書き」に費やされるエネルギーは大変だろう。
江戸時代の日本の識字率は世界一で、当時のヨーロッパと比べても、その識字率の高さは群を抜いている。「大江戸ボランティア事情・石川英輔・田中優子著・講談社」によると、1837年当時のイギリスの大工業都市での就学率は、わずか20~25%、19世紀中頃のイギリス最盛期のヴィクトリア時代でさえ、ロンドンの下層階級の識字率は10%程度、フランスでは1794年に初等教育の授業料が無料となったが、10~16歳の就学率はわずか1.4%にすぎなかったとされている。
嘉永3年(1853年)に日本を訪れたペリー提督は「日本遠征記」に、「日本では読み書きが普及し、見聞を得ることに熱心で、田舎にまで本屋がある」と日本人の識字率の高さに驚嘆している。
万延元年(1860年)に通商条約締結に訪れたラインホルト・ヴェルナー(プロイセン海軍エルベ号艦長))も、その航海記で「民衆の学校教育は中国よりも普及し、召使い女が互いに親しい友に手紙を書くために余暇を使い、ボロを纏った肉体労働者でさえ読み書きができる。」、「民衆教育について我々が観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?」と驚きを記している。
文久元年(1861年)に来日した宣教師ニコライは、帰国後に雑誌「ロシア報知」に、「国民の全階層にほとんど同程度にむらなく教育が行き渡っている。この国では孔子が学問知識のアルファオメガ(ΑΩ)であるということになっている。だが、その孔子は学問のある日本人は一字一句まで暗記しているものなのであり、最も身分の低い庶民でさえ、かなりよく知っているのである。(中略)どんな辺鄙な寒村へ行っても、頼朝、義経、楠正成等々の歴史上の人物を知らなかったり、江戸や都その他の主だった土地が自分の村の北の方角にあるのか西の方角にあるのか知らないような、それほどの無知な者に出会うことはない。(中略)読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にもひけをとらない。日本人は文字を習うに真に熱心である」と日本滞在8年間の印象を記している。
江戸時代に日本を訪れた多くの西洋人が日本人の識字率の高さに衝撃を受けたことを文書に残しているが、これとは真逆の反応を示したのが、昭和21年(1946年)3月にマッカーサーの要請により日本にやってきた民間情報教育局(CIE)のキング・ホール少佐だ。
彼はたったの25日間の滞在であったのにも関わらず、「漢字はエリートと大衆の調整弁であり、漢字の持つ特異性によって情報はコントロールされ、それゆえ民主主義は広がらない」とし、「日本語は漢字やかなを使わず、ローマ字にせよ」と報告書で勧告したバカで低能な白人だ。
キング・ホール少佐の報告書の2年後の1948年8月、日本人の識字率の調査で来日したアメリカ教育使節団は、全国270ヶ所の市町村に於いて、15~64歳の17000人を対象に読み書きのテストを行った。結果は報告の内容とは異なり、テストの平均点は78.3点、識字率は驚きの97.9%だった。
この調査結果により、教育水準と識字率の高さが証明され「日本語のローマ字化」を防ぐことができた。
当時の民間情報教育局の教育・宗教課長ハロルド・ヘンダーソン氏は、日本の禅や詩歌を愛する知日家で、日本語のローマ字化推進論に異を唱えこれを阻止した。
これによりキング・ホールが民間情報教育局の次期課長になると目されていたが、他の部署に異動となってしまい、日本語は完全にローマ字化の危機から脱したのだ。知日家のハロルド・ヘンダーソン氏がいなかったらと考えるとゾッとする。我々は危うく母国語を失う一歩手前だった。
エステ
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