2002.7.24号 特集【「W杯で日韓友好」の嘘と偽善】より

[直撃インタビュー]英雄的学生運動家で日本嫌いだった金完燮氏は、なぜ歴史観を変えたのか
「日本統治を肯定」で逮捕された作家の「韓国人は嘘の歴史で反日となった」

  作家・評論家 金完燮(キムワンソプ)

【PROFILE】1963年、全羅南道光州生まれ。サレジオ高卒。高校時代の80年に起きた光州民主化運動に参加して全羅道庁籠城。逮捕・投獄され、のちに「国会偉功者」として表彰される。82年、ソウル大学物理学部に進学し、天文学を専攻。雑誌記者を経て92年よりフリーランサーに。95年に出版した『娼婦論』がベストセラーとなる。96年より約2年間、オーストラリアに居住。帰国後、『コスタク新聞』を創刊し、編集主幹をつとめる。訳書にアインシュタインの『物理学の進歩』がある。

『親日派のための弁明』??朝鮮半島の日本統治時代を肯定的に評価した書物が、今年3月の発売から1カ月後、韓国政府の手で「青少年有害図書」に指定され、事実上の“発禁処分”を受けた。
 著書の金完燮(キムワンソプ)氏(39)は、95年に韓国のフェミニストたちから大抗議を受けた『娼婦論』の著者でもあり、自身を指して、「この本を書くまで、学校の歴史教育を盲信していた韓国国民の一人だった」と説明する。反日を民族統合の求心力としてきた韓国政府が今日もなお“封印”せざるをえなかった「日本統治肯定論」を著書自らが語った。
今回のサッカーW杯共催が、韓日関係を進展させるいい機会になることを望みたいが、現在のように「歪曲された歴史」が、韓国の若者に刷り込まれ続ける限り、真の友好関係を構築することは不可能であるといわざるを得ない。
韓国において日本統治時代の負の面だけが強調され、近代化への貢献など積極的な評価が一切封じ込められていることは、今では多くの日本人の知るところだが、にもかかわらずその風潮は一向に改まる気配をみせていない。それどころか、韓国政府が主導する反日教育は、もっとも重要な政治的イデオロギーとして機能している。南北分断以来、韓国の政権を掌握した政治集団は、その体制維持のために北朝鮮と日本という2つの“敵”を設定し続けてきた。
その教育がいかに浸透しているか、例えばこれはソウル大学国史学科のホームページで偶然に発見したものだが、その掲示板には米国に留学し、そこで韓国史の授業をとった韓国人学生の“憤り”が克明に記されていた。その学生は、米国人教授から「韓国政府は韓国と日本の関係について誇張された歴史を教えているのではないか」と指摘され、それに対していかに自分が愛国的態度でこれに抵抗したかが綴(つづ)られていたのだが、この留学生が下したいくつかの判断は完全に誤っていた。彼は、米国の学者が韓国の歴史を歪曲していると憤慨しているが、実際には、韓国の政府と学者のほうが歴史を著しく歪曲しているのだ。ここに問題の深刻さがある。
韓国の学生は幼い頃から10数年間、真実とはかけ離れた歴史を教えこまれ、根拠のない自負心を抱き、日本に対してねじれた知識と感情をもつようになる。
かくいう私も、今回韓日史に関する著書を出すまで、学校で教えられてきた歴史を信じてきた一国民だった。日本人は憎悪の対象に過ぎず、日本語を使う人をみただけで非常に不愉快な気分を覚えたものだ。それだけに1995年、阪神大震災が起きたときは正直大変嬉しく思い、インターネット上で日本の被害額を推測した文章を発表した。当時、日本のある中学生がインターネットで、「なぜ私たちは多くの親戚を亡くして悲しんでいるのに、韓国の人々は喜んでいるのか」と書き込んできたが、これに対して「あなたたちは犯した罪悪によって天罰を受けたのだ」と返事を書いたこともある。
今では、「何をきっかけにして韓国の歴史教育に問題があると気づいたのか」という質問をよく受ける。私の場合、95年に韓国人女性の伝統的考え方を批判した『娼婦論』がベストセラーとなったおかげでグアムやサイパンを旅行し、オーストラリアには2年間滞在した。この間に様々な書物を読むうちに韓国で教えられた歴史に疑問を持ち始めることとなったのだ。
やがてこのテーマで簡単なエッセイ程度の本を書こうと資料を集め始めると、韓国で当たり前のこととしていわれている事実が、まったく世界の常識とかけ離れていることがわかった。とりわけ中国の宗主権を否定した日朝修好条規が結ばれた1876年から1910年の韓国併合の時期において、私が学んだものと集めた資料には大きな差があった。この驚きが私を執筆へと向かわせた。
そして刊行されたのが、『親日派のための弁明』(日本では草思社より7月に刊行)である。しかし、この本が出版された今年3月、閔妃(ミンピ)(日本の朝鮮介入を阻止しようとして日本側に殺害された李氏王朝の王妃)の末裔たちから「名誉毀損」と「外患煽動」の罪で告訴され、逮捕された。「こんなことで私を投獄するならば、日本大使館に亡命せざるをえない」と抗議し、なんとか釈放されたが、4月には政府の検閲機関、刊行物倫理委員会がこの本を「青少年有害図書」に指定。事実上、書店での発売が禁止されることとなった。「青少年有害図書」はビニールで包装された上、「19歳未満購読不可」と表示される。書店では一般の書籍と一緒に販売できないという規制を受けることになった。
そればかりか、昨年8月、小泉首相の靖国神社参拝を巡って反日デモが最高潮に達していた時期、この本の草稿を掲載したウェブサイトが、掲載から20日後、情報通信倫理委員会という検閲機関によって、何の通告もなしに閉鎖された。
この間、一日に数百人の韓国人から脅迫を受けた。100年前の日本統治を肯定的に評価したというだけで、なぜ一介の物書きが身の危険を感じなければならないのか、慨嘆せずにはいられない。
植民地としてはまったく“魅力”のなかった朝鮮では、私が、その本で展開した日本統治時代の真実とはどのようなものなのか。その一つの、非常に大きな比較材料となるのが、台湾の存在である。
朝鮮と台湾は共に過去、近代化が始まる重要な時期に日本による支配を経験したという共通点をもっているが、日本に対する態度はちょうど正反対といってよいだろう。台湾は政府であれ民間であれ日本に対して極めて友好的な態度を堅持してきた。
例えば、台湾の英字新聞『Taiwan News』(2001年3月12日付)において、淡江大学歴史学科・林呈蓉教授は、「日本の統治時代がなければ、今日の台湾と中国統治下の海南島の間には何ら異なることがなかった」と断言し、その論拠を具体的に挙げ、同時に台湾総督府の民政局長として活躍した後藤新平を“近代台湾の父”と仰いで尊敬の意を表している。台湾において、こうした論調は多くの人々が支持するところである。朝鮮で後藤新平のような役割を果たした人物は伊藤博文だといえるが、韓国の教科書ではいまだに伊藤を亡国の敵だと教えている。
両国が同時代、同じ性格の日本統治を経験しながら、大きな相違が生まれた理由を問うと、たいてい「台湾に対する日本統治は15年長かったから」、あるいは「台湾には日本統治以前に独裁的な王朝が存在しなかったから」という答えが返ってくる。しかし、独立以降、日本統治時代にその統治に協力した勢力が政権の中心にいた韓国で、なぜこれほど反日感情が深刻なのか、その説明としては不十分だ。
日本による支配の“恩恵”を、例えば土地を例に見てみると、朝鮮を統治した日本は1911年から土地調査事業を始めて、農業基盤を整備し、所有権を確定した。それまでは土地や国や門中(一族)のものであったために所有者が特定できなかったが、この措置により農民や地主の名義での所有が認められた。すなわちこの調査事業により、朝鮮の自作農は自分の土地の主人となり、地主は余分な税金を納めることなく土地を所有できるようになったのである。しかし当たり前のことだが、歴史を記す層にとっては、経済基盤を奪われた“略奪の歴史”にほかならない。
どの立場から歴史を眺めるかによってその内容は変わるが、朝鮮全体としてみれば、(日本が自己の利益のために進出した点を考慮しても)それによって恵まれた部分もあったことは否定できない。
ところで、韓国人が自国の歴史解釈において錯覚していることがある。中国大陸を統一した諸王朝が朝鮮を直接統治しなかったのは、わが民族に独立精神が強かったからだとしているが、そうではない。気候がよいわけでも土地が肥沃なわけでもなく、資源が豊富でもなかったために、あえて占領する必要がなかったのだ。
19世紀末、ロシアが朝鮮を欲しがったのは軍事的目的として不凍港を必要としていたに過ぎず、日本にとっても朝鮮はロシアの脅威を防ぎ、大陸に進出するための橋頭堡であることの他には、特別魅力のある土地ではなかった。
帝国主義が植民地を獲得しようとした背景には、地下資源や砂糖、ゴムのような原料を獲得するという明確な目的があった。しかし、資源、気候、文化で日本と似たり寄ったりの朝鮮は、植民地としては最悪の地域であった。だからこそ日本は朝鮮経済を速やかに発展させ、日本経済と統合して市場規模を拡大させ、「規模の経済」を実現するという、一種の「長期投資」戦略で望まざるをえなかったのだ。
もとより朝鮮を統治下においた時点で、日本はすでに台湾を10年間統治していたので、何らかのメリットを得るために低開発状態の地域を育て上げることが容易でないことは十分に承知していたはずだ。
台湾の場合、統治の初年度である1896年だけで国家予算の11%という莫大な資金を台湾に注ぎ込まなければならなかった。その後台湾に対する補助金は少しずつ減ったが、台湾経済は赤字が続き、1905年になって初めて台湾植民地政府は自立経済を達成できたほどだ。朝鮮向けの投資はそれをさらに上回り、多いときには2000万円を超えたというが、これは日本の当時の国家予算の20%に相当する額だ。
安秉直氏は韓国では極めて稀な、日本統治を“客観的に”評価する学者だが、彼の研究によれば、朝鮮の植民地経済は1911年から38年まで年平均3.8%の成長を見せたが、当時これほど長く高成長が続いた例は稀だった。1918年から44年までの産業構造の変化を見れば、農林水産業の生産比率が80%から43%に減少し、反対に工業生産の比率は18%から41%に増えた。
韓国史学の世界的権威、ブルース・カミングス氏(シカゴ大学教授)によれば、日本の朝鮮経営は、植民地で産業化を逆行させ、農業社会に退行させた英国のインド経営と比較した場合、極めて対照的だったという。1930年代から朝鮮半島に入った興南の窒素肥料工場、水豊の水力発電所、鎮南浦の工業団地などは当時の基準からみて世界的に最高水準の施設であった。
日本が朝鮮に遺した目にみえない貢献
これら一連の投資は、日本にとって朝鮮が“植民地”ではなく、“日本の一部”とみなしていたことを表わしている。他の列強と異なり、日本は特に教育に多くの投資をしたが、さまざまな報奨を提供し本土で最も優秀な教師を大勢朝鮮に招聘(しょうへい)して各地の学校に送った。
今でも韓国人に憎まれ続ける伊藤博文だが、彼こそ教育事業に多大な関心を寄せた指導者だった。朝鮮では1895年の甲午改革によって近代教育制度が始まったが、伊藤が初代総監に就任した1906年まで11年経っても、全国の小学校は40にも満たないのが実状だった。これを知った伊藤は着任早々、朝鮮人官僚を集めて、「あなたがたは一体何をしていたのか」と叱責し、学校建設事業を最優先して改革をすすめた。その結果、1940年代には全国に1000を超える各種学校ができていた。
残念ながら、日本時代に懸命に築き上げた朝鮮の経済基盤は、朝鮮戦争によって大半が破壊された。しかし、社会の発展には目に見えない要素の方が重要だ。
教育制度、理念、慣習、法律、経験、技術のような無形の財産は戦争でも破壊されない。第2次世界大戦後、焦土と化した上、莫大な賠償金を支払わなければならなかった日本とドイツの経済があれほど速やかに復活できたのは、神が奇跡を起こしたのではなく、彼らに先進工業国としての経験があったためだ。
高度な文明を作り上げそれを享受したことのある社会は、一時的な惨禍で物質的な基盤が壊滅してしまったとしてもすぐに立ち上がる能力を備えている。われわれはこの無形の財産と経験を与えられたといってよい。
2001年夏、韓国放送公社では、2回にわたって放送した日本に関するドキュメンタリー番組で、私は日本が自虐史観に侵されていることを知った。
しかし、多くの文献から歴史的事実を学んだ私は、日本が明治維新以後、他のアジア諸国にはできなかった偉業を成し遂げ、日本のみならず人類の歴史にも多大な貢献をした国であることを知っている。それだけに一度戦争に負けたことによって、自分たちの歴史にプライドをもてずにいることには、大きな悲しみともどかしさを感じている。
だからこそ近年日本で起きている『新しい歴史教科書をつくる会』などが提唱する、日本の歴史教科書の見直しには全面的に賛成である。これは韓国で喧伝されているような右翼の蠢動(しゅんどう)などとは全く異なるもので、愛国者としての行動に他ならない。
今日、私が日本に望むのは歴史認識の問題だけではない。日本は対米・対中関係においても、真の独立国家として、自らの道を選択し、歩んでいくことが必要だろう。もし、中国との関係において空母を含め艦隊を増強する必要があるならばそうすべきだし、“核武装”が必要であると判断するならば、それを現実の戦略として検討すべきだ。
憲法改正も同様である。米国に強要された憲法の呪縛から抜け出すことは、同時に米国に強要された“戦犯国”としての位置から抜け出すことでもある。
今後良好な韓日関係を築くためにも、韓国で「反日教育の是正」が行なわれると同時に、日本の「根拠のない自己蔑視」に終止符が打たれなければならない。

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