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□ 2012/12/23 除夜の鐘と煩悩

仏教では人には百八の煩悩があると説く。12月31日の大晦日に鐘を衝く風習は、中国(960~1279)から鎌倉時代に伝来したものだが、最近は街中のお寺さんでは、苦情(騒音防止条例)により中止しているところもあるようだ。大晦日の夜に聞こえる除夜の鐘の音は風情があって良いものだが、どこにでも風情を楽しめない者はいるものだ。
除夜の鐘は人の持つ煩悩を滅するために衝くのだとと云われるが、宗派等によりその数は異なるようだ。また時代とともに新たな概念が生まれてくるので、最終的にはどの位まで膨らむかは未知数だ。現在、少ない所で「三」、最大では約「六万四千」に上ると云われている。
午後12時を境目とし、年内に107回鐘を衝き、残りの1回を年が明けてから衝くのが正しい(?)とされる。細長い日本列島では各地で微妙に時間のずれが生じる。今は日本標準時が適用されているが、鎌倉時代はどうしていたのだろうか。除夜の鐘の輪唱?


そのそも108の根拠となる説に説得力が感じられない。煩悩の数の他にも、24節季に72候と1年の月数12を加えたものとする説や、「四苦八苦」を取り払う意味で 4×9+8×9=108 としたとの説がある。何かの数字遊びのようでもあるし、語呂合わせの匂いがしないこともない…
日本はの大晦日は新暦の12月31日だが、中国では今も旧暦に行う行事だ。
□ 2012/12/18 選挙は籤引(くじびき)と同じ?

不甲斐ない民主党に国民の審判が下り、衆議院選挙が終わった。自民党は思いがけない大勝利だったが、前回の総選挙と比べ自民党への投票頭数は大幅に減っている。国民が自民党を推したのではなく、単に民主党が支持を失っただけのようだ。


江戸時代、裁判は公事(くじ)と呼ばれた。籤引の「籤・くじ」と同じだ。元来、日本語の「くじ」には神意・仏意に問うとの意味がある。そう考えると立候補者の当落はまさに「籤」に等しい。明日12月19日は江戸時代の名奉行大岡越前(忠相)の命日にあたる。
□ 2012/12/09 戦時国際法と非戦闘員

内戦は別として国家間の争い(戦争)には、戦闘員は自国の軍服を着用することが国際法で定められている。これは非戦闘員である市民に危害が及ばないよう配慮したものだ。
つまり、国際法では一般市民が戦闘に参加することは想定していない。仮に、軍人が一般市民に紛れ込み破壊工作を行ったらどうのような事態になるのか、誰もが少し考えればこの取り決めの意味が納得できる筈だ。
軍人が制服を着用せずに不法に破壊工作を行えば、非戦闘員である一般市民との区別ができず、国際法で定められた非戦闘員との垣根が消滅してしまう。それでは市民を保護すべく定められた仕組みが全く機能しなくなる。非戦闘員であっても危険な存在だとされ、場合によっては攻撃や掃討の対象となってしまう。 故に、武装した市民が戦闘に参加して逮捕された場合、非戦闘員であるとは看做されず、ゲリラ若しくはスパイとして処刑されることが多くなる。
攻め込まれた国の民が武器を手に侵入者に立ち向かうことは当然のことだが、国際法ではそのような行為は想定外で、攻撃対象とされても止むを得ない面がある。戦時下の「虐殺」と呼ばれる事件の中には、この非戦闘員であるべき市民が武器を手にしたことに端を発するものが多くある。
単に「虐殺」だと非難することは簡単だが、実際にロケットランチャーや手榴弾を手に迫ってくる者を、武器を使用せずに排除することは、如何に優れた軍人であっても不可能だろう。相手は明確な殺傷意思をもってやってくるのだ。武器の使用以外に有効な手立て等は考えられない。


戦時体制下に於いての「虐殺」とは、敵国の武器を持たず抵抗できない状態に置かれた「捕虜」や「一般市民」を、軍が不法な手段を以て殺戮することを指す。因みに、戦時体制下であっても、自国民に対して国家が行う殺戮は、その規模に関係なく内政問題だとされ、戦時国際法の対象外となる。
従って、ナチスによるユダヤ人(ドイツ国内の)虐殺や、ソ連や中国の共産革命で殺された数千万人にも及ぶ犠牲者は「内政問題」であって国際法の適用外になっている。つまり国際法は元々軍人の利益を優先させる為に考え出されたものであって一般市民を対象としたものでないことに怒りさえ覚える。
現在も世界各地で多くの戦闘が行われ、非戦闘員である一般市民が無残に殺されている。その殆どが「虐殺」ではなく「内政問題」として処理されてしまう。この世は何とも理不尽だ


自国民を惨殺するような野蛮な政府は赦せないが、実際にそのような国はかなりの数に上る。誰もが生まれてくる国を選べないが、生まれてきた以上は、虐げられることなく一生を終えたい。人の世は何時も不条理に満ちている。
□ 2012/12/03 企業コンプライアンス

近年よく耳にするようになったのが「コンプライアンス」と言う外来語だ。英語の compliance のことで、一般的には「企業コンプライアンス」を指している場合が多い。この compliance には「遵守」や「従順」の意味があり、「法律や規則を守ること」と一般的には解釈されているようだ。
牛肉の産地偽装問題や賞味期限の改ざん問題等々と、常識を疑われるような法令違反が連続して発覚した時期があった。その多くは内部告発という形で表に出たが、企業の法令違反の氷山の一角でしかない。
そもそも企業に道徳など求めてはいけない。企業は利益追及の為に活動し、それこそが絶対的な正義なのだ。企業にとってのコンプライアンスは、それを遵守することでは無く、如何にその網に引っ掛からず、巧妙に監視の目を潜れるかかの一点にある。


仮に道徳を求めるのだとしたら、それは企業と言う組織にではなく、そこで働く個人(社員)に求められるべき事柄だ。その点で言えば内部告発は「正義」だが、企業にとっては「裏切り」でしかない。
体力のある企業ならいざ知らず、存続自体が危ぶまれることさえ稀ではない。己で法を犯し信頼を失墜させたのだから、社会的な制裁を受けるのは自業自得なのだが…
それ故、企業コンプライアンスにば「社会的規範」や「企業倫理」も含まれるのだとする考え方もあり、社会的責任履行(CSR=corporate ocial reponsibility)と並び、コンプライアンスはおろそかにはできない重要なテーマとなってきている。
□ 2012/12/02 支那は中国の蔑称(べっしょう)なのか

「日本維新の会」の石原慎太郎代表が「武器輸出三原則」はナンセンスだとし、「優秀な武器を作ってどんどん支那(シナ)に売ればいい。技術が全然違うんだから」と述べたことに対し、中国が激怒し共産党系ニュースサイト「人民網」(2012/11/27)に氏への批判記事を掲載した。
その中で石原氏を「狂妄石原」と罵倒し、中国への武器輸出については「失神発言」だとした。また中国を支那(シナ)の蔑称(べっしょう)で呼んだとして猛反発した。
以前から石原氏は事あるごとに中国を支那(シナ)と呼んでおり、いつかは問題を起こすのではと思っていた…


さて、氏の発言の真意は兎も角として「支那」は果たして中国の別称なのかを考えてみたい。因みに、下の記事は姉妹サイト「トッポギレシピと趣味のウキ・操体法」の中のコンテンツの一つである「メンマの名前の由来と味付けメンマの起源」で、メンマをシナチク(支那竹)と呼ぶ者がいるので、メンマの記事のついでに書いたものだ。政治的な意味は全くない。

支那」は「中国」の蔑称であると力説する人も多いようですが、それは大きな誤りです。「支那」には蔑称の要素は全く存在しません。もともとは、中国語の「秦」が梵語(サンスクリット語)に音訳されて印度に移入され、それが仏典と共に中国に伝来した時に、中国人自らが「支那」の字(音)を当てたのです。
つまり「支那」は中国人自らが創り出した正真正銘の中国語です。ここに中国を差別する意図や要素は全く含まれません。
しかしながら、日中戦争当時、「支那人!支那人!」と蔑まれ、馬鹿にされ、差別されてきた歴史的事実からすると、中国の人々が「支那」と言う呼称を極端に嫌う理由も理解できます。フィリピン等でも問題になったことがあった、日本人観光客が歌う軍歌と同じで、その軍歌の下で蹂躙された過去を思い出し腹が立つそうです。
某国が行う「きのこ雲」のショーが日本人にとって不愉快なのと同じ理屈です。よって、「支那」は正真正銘の中国語であっても、その呼称を安易に使用することは控えるべきだと考えます。
また、日本では古くから中国を王朝名で呼ぶ慣わしがあり、今でもその時代時代の王朝の名(例:秦・唐・清等)が使われるのが普通です。日本人にとっての「支那」は、彼の地に持つイメージのようなもので、それは特定の民族とは関係なく、地域全般、つまり、そこにある(またはかつてあった・存在した)民族、言語、歴史、文化、思想等を表していると思います。つまり「支那」は国名ではない訳で、中国人は自分たちの国を昔から「中華」や「中国」と呼びます。
因みに、広辞苑(第五版)には、「ちゅうか【中華】:漢民族が周囲の文化的におくれた各民族(東夷・西戎・南蛮・北狄等)に対して、自らを世界の中央に位置する文化国家であるという意識をもって呼んだ自称。」とありますし、日本初の近代的国語辞典とされる明治22年(1889年)年発行の「言海」では、「ちゆう-くわ (名)  中華  (一)四方ノ夷狄ニ對シテ、中央ノ開ケタル國。中夏。中國。(二)支那人ノ自國ヲ自稱スル語。」とあります。
そこからも判る通り、「中華」は中国人が自らの国を呼ぶ呼び名で、少なからず差別的な意味合い(中華思想?)と由来をその語源に持つことも判ります。人は皆「自分勝手」なものなのです…
参考までに、今でも東シナ海インドシナ・シナチク等と「シナ」は相変わらず使われることが多く、コットンパンツのチノパンも当たり前に使われる言葉で、チノパンの語源は、第1次世界大戦期にフィリピン駐屯の米軍が軍服地として中国からチノ布地を買い付けたことに始まるとされ、チノとはその調達地の中国を意味するスペイン語だそうです。
また、中国学(かつては支那学と呼ばれていました)は英語で Sinology と呼ばれ、日清戦争や日中戦争は Sino-Japanese War と呼ばれます。
「支那」に差別的な意味合いは全くありません。敗戦(第二次世界大)後、妙に自虐的になってしまった日本ですが、誤解されていることには、ハッキリとそのような意図ではなかったことを述べる(いい訳ではなく)べきです。但し、相手の感情も考えながらですが…

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